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森田 秀昭
家族介護者支援事業を推進するアラ還クールシニア。 何不自由なく暮らした青少年時代~30代。しかし、40代半ばからは借金地獄に家庭崩壊、そして介護離職など試練の連続。そんな人生も、50代半ば、素敵ないくつかの出会いをとおし好転しはじめ、今は楽しく元気に介護者支援事業を進めつつ妻と第二の人生を謳歌しています。
森田 秀昭

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森田秀昭

家族介護者支援事業家

家族介護者支援事業を推進するアラ還クールシニア

何不自由なく暮らした青少年時代から30代

しかし、40代半ばからは借金地獄に家庭崩壊、

そして介護離職など試練の連続。

そんな人生も、50代半ば、

素敵ないくつかの出会いをとおし好転しはじめ、

今は楽しく元気に介護者支援事業を進めつつ

妻と第二の人生を謳歌しています。

そんな私、森田秀昭のプロフィール、

よろしかったら最後までおつきあいください。

 


生粋の九州男児として成長


私は、1956年2月29日鹿児島で生まれました。

そうなんです!

人もうらやむ閏日(うるうび、じゅんじつ)生まれなんですよね。

ただ、戸籍上は3月1日。

昔は都合でかえちゃう人、多かったんです。

1956年生まれですから、

2016年には還暦になりました。

 

19歳まで、火を噴く山、桜島を見て育ちました。

桜島は今も昔も、青年の心に情熱の火をともします。

もちろん私もそうでした。

初恋は幼稚園の年長組の時、

とってもきれいな担任の先生でした。

幼少の頃から面食いでしたが、

歳を重ねるにつれストライクゾーンは広くなり

今では暴投でない限り受け取れるようになりました。

 


学年一の俊足の友達に走り勝つ


私は、父が嘆き、友達が呆れるほど

足の遅い少年でした。

そんな私がとんでもない走りを見せたときが

生涯で一度だけありました、

それは、小学校4年生の時、

何人かの友達と鬼ごっこをしていた時のことです。

 

その時、鬼は当時学年一足の速かった友達でした。

その彼に見つかった私は、陣地にしていた電柱に

彼より先にタッチするため全速力で駆けました。

すると、なんと、学年一俊足の彼を振り切り

あと一歩で電柱!というところまで来たのです。

 

しかし、その瞬間、事故は起こりました。

電柱前に飛び出ていた何かのメーターのふちに

足をひっかけてしまったのです。

電柱、その先にあったのは生活排水の流れる「どぶ」。

私はハンマーを振り落とすがごとく

つま先を軸に前のめりに倒れ・・・

親から叩かれたこともなかった頭を

これでもかというほど思いっきり

どぶのへりにぶつけてしまったのです。

 

痛みも感じないほどの衝撃

そのままどぶ水の中に倒れこみ、

触ると額から大量の血がどくどく・・・

 

学年一の俊足ランナーを振り切った満足感は

一瞬で吹き飛んでしまったのでした。

幸い急所ははずれたものの、

額を十数針縫い、頭蓋骨にはヒビが2本入る大怪我でした。

 

ただこの事故でよかったことがふたつありました。

ひとつは、

いちばん最初にお見舞いに来てくれた人が

片思いの女の子だったこと。

ふたつめは、

この事故を境に不思議と勉強が出来るようになったことでした。

 


小6で最初の試練


勉強が出来るようになってしまった私は、

小学6年生になって、先生から私立中学受験をすすめられます。

公立校重視の県民性がある鹿児島県なのですが

親も自尊心をくすぐられたのか受験に協力するようなります。

 

先生からの特別指導を受けながら

友達と「力の5000題」という分厚い問題集を

解いたりしました。

 

そして、初めてのお受験。

結果は全員不合格。

そりゃそうです。

その中学の入試問題、解いたことなかったんですもの。

普通に勉強してたって解ける問題じゃなかったんです。

受験のとき、問題見て、

「ああ、終わった・・・」

って思いましたもん。

 

「己を知り敵を知れば百戦危うからず」

って言いますが、

その中学のことも自分のことも知らなかったんですから

百戦すべて危うしの状態での受験だったわけです。

 


中3で2回目の試練


そういうことで、中学は近場の公立校に行きました。

部活は軟式テニス部、

かけっこ、持久走はダントツのビリでしたが、

勉強の出来と品行のよさで先生方や級友達の信頼を得ていました。

学年全体が受験モードに入っていた3年生の秋でした。

運動会を控えたある日、親友が私のため

一肌脱いでくれることになりました。

いつも徒競争ダントツビリの私を救済するため

かけっこのアドバイスをしてくれることになったのです。

 

そのためにタイムを計ろう!ということで

友達と理科室から黙ってストップウォッチを拝借しました。

もちろん、翌日返すつもりでです。

ところが、これが学年中(500人くらい)を巻き込む

事件になってしまったのです。

 

翌朝学校に行くと

「理科室からストップウォッチを盗んだ人がいるんだって。」

との話で持ち切りになっていました。

「誰が盗んだんだろうね。」

「悪いことするやつがいるもんだよね」

級友たちはささやいています。

最初は知らぬ存ぜぬでいましたが、

誰も名乗り出てこないため

ついには、先生たちの間で、

警察に届けようという話にまでなっていました。

 

追い詰められた私達はついに観念しました。

「先生、ぼくらがやりました。」

担任の先生の顔は真っ赤になりました。

その時、私達は同じクラスで委員長と副委員長でしたから、

先生には相当なショックなことだったのです。

こぶしを握った先生は僕らの頬をみんなの前で

思いっきり殴りつけました。

 

「君たちだけはそんなことはしないと信じていた!」

優等生だった私達でしたが、

その時からしばらく同級生から

冷たい目、白い目で見られることになります。

 


高3で3回目の試練


それでも、月日は過ぎ、高校は進学校に入学。

担任の先生からは頭の良さはほめられましたが、

努力する習慣のなかった私の成績は下がる一方。

当時は一期校、二期校とあったのですが、

案の定、一期校は不合格、

それでも、地元の二期校には滑り込みました。

このとき、親と先生の助言に従い

素直に地元の大学に行っていたら

おそらく、平々凡々ながらも

それなりの企業、あるいは公務員になり、

親にも迷惑をかけることもなく、

安泰とした人生を送っていたことでしょう。

 

しかし、何をとち狂ったのか、

「あの大学に落ちたのは理解できない。

もう一度来年受験するんだ!」

と決めてしまった自分がいました。

そして、安易に一浪。

予備校のお金を親から出してもらいながら、

予備校の玄関はくぐらず、近くの川に行き、

川辺で川面を眺める毎日。

 

受験前にあわてて勉強し始めたものの、

やったのは「傾向と対策」という赤表紙の問題集だけ。

それも一部分だけという怠慢。

しかも、受験前日に風邪を引き

熱で頭がボーっとする状態での受験でした。

一年前より確実に学力は落ち、

しかも体調は最悪。

それなのに、

合格しちゃったんです。

 


親不孝の始まり


当時一期校の福岡の大学に進んだところまでは

親としても自慢だったようです。

一浪したことさえ、親としては、

負けん気の強い気概のある息子として誇らしそうでした。

しかし、ここから、私の親不孝物語は始まります。

 

親兄弟親戚の反対を押し切ってまでわが道を行こうとする私を

両親は勘当をした時さえありました。

自分としては一所懸命生きたつもりでいながらも、

周りに迷惑をかけ親不孝を続ける日々が続きました。

そうして過ごした十数年を反省し、

親孝行をするために36歳でUターン。

実家の近くのアパートで暮らし始めました。

 

しかし、親の希望もあって、

その一年後に、実家から車で1時間半離れた町に引っ越し、

その町で学習塾を開くことになりました。

開設2年後には、最先端の学習指導を試み、

営業マンに紹介されるまま教材、パソコン等にどんどん投資。

しかし、投資金を回収できずに、

借金だけがどんどん膨らんでいきました。

毎月の返済に追われる生活。

そんなとき、長男の不登校と暴力が始まり、

家族はどん底に突き落とされていったのです。

 

その頃、ネットワークビジネスの誘いもずいぶんありました。

うまい話だと思い、さらに借金して商品を買い込む有様。

しかし、結局稼げず借金はなおいっそう増えていき…

ついには、にっちもさっちもいかなくなり

裁判所に行き調停の手続きをし学習塾も閉鎖しました。

新天地を求め、実家に居候し就活をはじめました。

 

しかし、50を過ぎた男の就職先は限られたものです。

どうにか、冠婚葬祭の会社の営業代理店に就職し、

実家から会社へ通う生活が始まりました。

ところが、入社3週間後、認知症状の現れ始めていた母が

奇怪な行動をとったのです。

「息子が働きもせず家でごろごろしている。

 どこかいいところはないか?」

と知人に相談しに行ったのです。

そして、私の知らないところで、

いつの間にか、

ある会社の面接を翌日受ける羽目になってしまったのです。

そして、そこに採用決定。

冠婚葬祭の会社は3週間で辞めることになりました。

 

入社した会社はパチンコ店、そこの店長職に就きました。

パチンコをしない、知らない店長でしたが、懸命になって働きました。

給料のほとんどは借金の返済にあてがいました。

不思議な母の行動でしたが、

結局はそのおかげで整理してもなお残った借金を

一年で返すことが出来ました。

店長時代は、インターネットビジネスに興味を持ち、

いろいろな商材を買いあさりました。

しかし、ほとんどうまくはいきませんでした。

どん底時代は過ぎていたものの

厳しい生活はまだ続いていました。

 


そこから這い上がり、そして今願うこと


店長時代の2013年の4月、

これが最後と思いインターネットビジネスのひとつである

アマゾン輸出に取り組み始めました。

実は、このころ、私は妻と交代で、父の見守りのため、

自宅(南九州市知覧町)から

実家(鹿児島市)へ通う生活をしていました。

前年の2012年9月、私達夫婦の目の前で母が脳梗塞で倒れ入院、

それがきっかけで父の認知症がひどくなり、

一人での生活ができなくなっていたからです。

 

2013年11月には、半身不随で寝たきりになった母を引き取り、

父と母を介護するため自宅を離れ妻と実家で暮らすことなります。

しかし、想像以上の介護ストレス、

この生活がいつまで続くんだろうという不安、

また、介護が終わった後の私達の人生に対する心配など

日増しに心労は強くなってきました。

 

最後のつもりで取り組み始めたアマゾン輸出も、

父や母のこともあり、結局1年間何もしていなかったのですが、

このままでは将来はもちろん今の生活もだめになると

不安な思いがどんどん強くなってきていました。

せめて経済的な問題だけでも解決していかなければと、

アマゾン輸出のコンサルを受けることを決断したのが2014年3月末。

想像を超えた高額の契約料でしたが、

覚悟を決め費用を捻出しました。

 

幸いにも、2ヶ月目には想像以上の成果を出すことができ、

それをきっかけに、

今度は私自身がアマゾン輸出を教える立場に立つようになりました。

アマゾン輸出への取り組みは大きな副産物をもたらしてくれました。

介護のストレスがとっても軽くなってきたのです。

それは、単に、経済的な問題から開放されるようになった

ということだけが原因ではなく、

アマゾン輸出を通して出会った方々や、ビジネスへの考え方が、

介護に対する考え方や取り組み方を変えるきっかけを

作ったくれたからでした。

 

実は今、私は「家族介護者支援事業」を推進中です。

居宅介護している家族の方々に

私なりの支援をしていきたいと思っているのです。

私や妻がしてきた経験がきっとお役に立つと信じているのです。

 

ところで、あなたはユーモアはお好きですか?

私はユーモアが大好きです。

特に思いやりのこもったユーモアは大大大好きです。

私のテーマは

「介護を快護に」

です。

 

介護には笑いが必要です。

笑うためには何が必要でしょう?

愛情?

私、40年がんばってみましたが、

愛情あふれる人間にはなれませんでした。

笑うためには何が必要でしょう?

私は、ゆとりじゃないかなと思うんです。

ゆとりを少しでも持てるようになるための「家族介護者支援事業」

それを作っていこうと思っています。

 

あなたともご縁を持てたら幸いです。

 

フェイスブック

https://www.facebook.com/morita563

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