★再び、現在の私。そして未来へ★
だんだんと体力もなくなってきたのでソフトテニス部の顧問は辞め、現在は国語科の仕事に特に力を入れています。
ほぼ毎年高3の受験指導もしています。
そんな中で最近感じるのは、「教える・教えられる」という者同士の関係性や、学校という教育現場のあり方の変化。
そこがあまりにも機械的になっているように感じるのです。
生身の人間同士のふれあいの場であるはずの学校において求められることが、機械的に感じてしまう。
教育においてもっとも大切にされるべきものは「心」だとみんな知っていながら、
それとは逆行した形で、効率だの合理性だのばかりが追求されています。
授業においても、画一的に、生徒にやさしい、わかりやすい授業を求められる。
「わかる」ってどういうことだろうかといつも思います。説明においてわかりやすさはもちろん大切です。
古典文法などはある程度論理的な説明も必要です。
でも、そんなに簡単に何でもわかっていいのか? 「わかる」って言っても、わかった気になっているだけではないのか?
教える側には、わかりやすさが強く求められ、そこから生徒の意欲・やる気を引き出すことまでもが求められる現代の学校現場。
しかも、生徒がするべき努力のところまで教える側の力とみなされる傾向がある。
私は、そこまでして勉強させなくてもいいんじゃないか?と思うわけです。
勉強は高校生くらいになれば、やりたい人が自発的にやろうとする気持ちを持ってはじめて意味をなすのです。
それが、行きたい大学の受験科目にあるという理由でもいいわけで、そんな理由であっても、
自らが学びたい、学ばなきゃと思ったときに、その科目が扉を開くのです。
ところが学校の授業では、やりたくない人を無理やり着席させている状況がある。
そしてまた逆に、途中から本気で勉強したいと思い始めても、授業はどんどん画一的に先に進んでいるので、
すでについていけなくなっている状況もある。
私は特に古典の面白さや奥深さを高校生に伝えたいと思っていますが、
伝わるかどうかは、まず初めに、学ぼうとする、知りたいと思う、その人自身の姿勢ありきです。
興味を持つか持たないかは、その人次第。やりたくなきゃやらなきゃいい。
それを画一的強制的にさせようとするから変になっちゃうわけで。
学校教育のなんという窮屈さ!! こんなふうだからいずれは高校なんていらなくなる。
それはそんなに遠い将来ではないように感じます。
現在、インターネットの中にも高校に代わるだけの場は存在します。実際の高校現場よりも柔軟で、可能性のある場だと感じます。
インターネットの向こう側に生身の人がいることを、お互い忘れさえしなければ、
学びたい人が学べる環境、教えたい人が学びたい人に教えられる環境は、学校以上に広がっています。
皮肉なことですが、学校がどんどん機械的になっていき、むしろインターネットという機械を通してのほうが、
機械的ではない関係を作っていける可能性を感じます。
インターネットを使って、機械的ではない関係の中で、古典という学問の面白さを伝えていく。私はそこに挑戦してみたいと思ったのです。
だから、自分が楽しいと思う古典について、ここカリスマで発信し、「学ぶ意志を持った人」に古典の面白さを伝えていきたいのです。
それは、授業についていけなくなった人でその遅れを取り戻したいという人だったり、大学受験に向けて力をつけたい人だったり、
あるいは単に古典を学びたいと思う人かもしれません。
学校では1人の先生が担当している生徒すべてに個人的に対応するのは至難の業です。
でも、インターネットのレバレッジをきかせれば、クリアできるはずです。
インターネットのレバレッジと言っても、ツールだけに任せるわけではなく、
もちろんそこに人としてのサポートがあるわけですので、これは画期的な学習方法です。
学校でもIT教育は盛んに取り入れられ始めています。
このカリスマのシステムを使って多くの人が古典を楽しく学ぶきっかけに出会ってくれれば、うれしいです。
私たちは日常の中で、楽しかったり、うれしいことがあったり、へこんだり、悲しかったり、そうやって生きています。
そして、落ち込んだり、元気をなくしたりしたとき、人は自分以外の他の力を借りたりします。
その力とは、生身の人だったり、大好きな風景だったり、誰かからもらった手紙の中の言葉だったり、過去の記憶だったり、
本の中の言葉だったり、好きな歌だったり、映画のワンシーンだったり。
そして、そこに古典文学があれば、人生、もっと豊かになると思います。
だから、元気の出る種の1つとして、古典に関する知識を発信していきたいなと思っています。
それを受け取ってくれた人たちに、ささやかでいいので、さまざまな形で元気とか勇気とか、を感じてもらえたらいいなと思っています。
古典の作品は、現代の合理性を追求する目で見れば、実に不合理な要素の多い文章ですが、その不可解さが人間らしさを感じさせるのです。
何でも合理的・分析的に捉えなければ気のすまない現代において、わからなさが渦巻いている古典の世界って、ちょっと素敵だと思いませんか。
大学入試センター試験はあと4年で終わり、新たな入試制度が導入されますが、
そうなれば、機械的な「わかる」では対応できない試験になると思います。
科学の世界でも、1つの問題に対して、答えが必ずしも1つとは限らないという認識が浸透してきたし、
私たちが直面する問題にはむしろ答えといえるものがはっきりあるほうが珍しいわけで。
基本的な知識はそれとして踏まえつつ、センター試験のような答えが1つの問題には当然対応できるような力をつけることに加えて、
それ以上に、自分の頭や心を通して考えることこそが、いま大切にしなければならないことなのです。
古典という世界を通して、そんなことを伝えられたらいいな、と考えています。