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MR. JUN

MR. JUN

猪突猛進の亥年生まれ。 中学時代からの創作活動を経て、18歳でデザイン事務所を構える。 店舗デザイン~ファッションまで他分野のデザインを行ってきた。 現在では、感性教育やブランディングコンサル・流行分析まで手を広げ、誰もが知るファッションメーカーとのデザイン案件も、第一線でこなすマルチクリエイター。

前回の記事では、経営者が戦国武将の性格を参考にできるというお話をしました。

戦国武将というのは、当時の国の経営者だったわけです。

 

※この記事は、前提として経営者か、経営者を目指す人に向けて書いてますのであしからず。。

 

 

 

それで、当然立地や経済力以外に、それぞれの武将の性格によって

・攻めるのか

・守るのか

・天下統一まで目指すのか

・平和を目指すのか。

ゴールの設定が違っていたわけです。

 

これは、経営でも同じようなことが言えます。

・業界一位を目指す経営者

・家族や社員を養うことやリスクをへらすことを第一に考える経営者

・世界企業や上場を目指すのか

・コツコツとみんなが安定して暮らせる会社を作ろうとしているのか

 

 

このように、経営をしていくと一言で言いましても

いろんな経営の仕方あります。

 

今回は、徳川家康さん。

2015.10.3

 

ご存じですよね。

江戸幕府を作った人です。

 

愛知県の出身です。

3歳で母親と生き別れ、6歳で今川義元の人質となり静岡へいくことになります(*´Д`)

が・・・静岡に行く途中、裏切りによって織田家の人質になります。

 

ここで、すでにMR.JUNは涙ですよ。。

 

うちの息子は小学校2年生です。

たまに、口をへの字にして悔しさを堪える表情をするのですが

きっと家康は幼少期、そんな顔をして人質生活をしていたのでしょう。

 

大人の事情に、6歳児が振り回されてるんです。

 

そして、8歳の時には人質交換で織田家→今川義元のもとへ移動(; ・`д・´)

もう!いい加減にしなよ!大人たち!!!

 

と、怒りが沸き上がってきますね。

 



こういった経験を経て、徳川家康は我慢強さならだれにも負けない子になっていきました。


 

10年余りの人質生活の中、徳川家康は今川義元のもとで成長していき18歳になっていました。

 

そして、なんと有名な「桶狭間の戦い」。

今川義元が織田信長の奇襲を受けて、大敗北した、あの歴史の分岐点です。

 

あまり語られることはありませんが、今川義元のもとに食料を届ける任務を果たした徳川家康は、すぐ近くにいました。

寺まで逃げ、自害しようとした家康青年は、住職に止められます。

 

その後、心を固めた家康青年は、敗北した今川家からの独立を決意するのです。

 

もともと、人質として今川家にいた家康のことを考えると、

そこには自分の実家の生まれ故郷の人々。

抱えている責任。

自分が捕まることでの、近隣諸国の動きや

そもそも天下統一に近いといわれていた今川家が負けたこと。。。。

 

パニックでしょう。

だって18歳ですよ。

 

きっと、この時もうるんだ目で、家康青年は口をへの字にして、ぎゅっと我慢していたことでしょう。

 

 

タイピングしながら、MR.JUNは泣けてきました。。

 

こうやってさ、我慢して、努力して生きてきた人の人生を

ぜひとも、結果がでない時にこそ読み深めてほしいんだよ。

 

みんな、うまくいくまでこういう時期がある。

 



いよいよ、俺の時代だ!


そう勢いづいた家康は、翌年19歳の時、決死の覚悟で、なんと織田家に敗れた今川家を攻めます。

 

今川家は、さっきもいいましたが天下統一に、かなり近い実力派大名だったため、武田家や北条家と同盟を結んでいました。

 

ですが、上杉謙信との戦いで、武田家と北条家は忙しく今川家を助けに軍を回す余裕がなかったのです。

 

当たり前ですが、今川家は怒り狂いました。

もう家康青年は、後ろに引けません。

そこで同盟を組んだのが、織田信長です。

 

家康青年。20歳のころの話しです。

 

そして、ようやく自分の国を整備していくことができる状態になります。

三河の国。今の愛知県です。

トヨタのあたりもそうですね。

 

もともと軍を率いる才があったのでしょう。

4年間をかけて、三河全域を平定していきます。

そして、その間には農民一揆をおさめたりと、忙しく働きます。

 

ですが、人質時代と比べれば、まさに頭角を現したという状態。

苦しくても、我慢できるタイプの苦しさだったろうと思います。

 

その後、家康は武田家とも同盟を結び、

数年のうちに、とうとう完全に今川家を降伏させました。

 

今川家の静岡の領土を手に入れたのです。

ずっと人質だったのに・・

どんな気持ちだったことでしょう。

 

切腹しようとした桶狭間の戦いから8年後。

人質だった領地を治める大名になったのです(*´Д`)

 

頑張ったね!家康ちゃん!!!!

 



やばい・・我慢するのをやめた家康・・


 

すっげー、いままで我慢の人生だった家康。

きっと静岡は思い入れが強かったのだろう。

 

我慢に我慢を重ねてきたのに、

同盟関係にあった武田家と領地でもめてしまった。

うまく妥協点を探そうよ・・と下手に出る武田家に・・・

 

家康・・やっちぇまった。。

武田家と手を切ってしまった。

 

ここから、家康の運気は逃げてしまう。

近くの武田、北条、上杉、織田とのパワーバランスと同盟の駆け引きに翻弄されていく。

武田に負け、そしてまた武田に負け・・・

思い入れのある静岡を失っていく。。

 

いままで、我慢を重ねてきた家康。

なぜここでは我慢ができなかったか。。。

 

最後の決定打となったのは、有名なこの戦い。

世にいう「三方が原の戦い」である。

 

浜松城にいた家康の前を、武田家が素通りしていく。

どこに向かうか。

 

家康の故郷。三河地方である。。。

 

優秀な部下が、浜松城からでないことを提案するにもかかわらず

家康は飛び出す。。。

武田信玄のもとに。。

 

飛びでても、飛び出なくても、武田信玄を止めることできなかっただろう。

でも、家康は、、

飛び出た。

 

きっと、耐えられなかったのだろう。

いろんな感情が湧き出たに違いない。

 

そこで家康は、1000人以上の仲間を失った。

ずっと仕え続けてくれた家臣もごっそり失った。

 



家康は恐怖のあまり、馬上でウンコもらした。


31歳の冬のことだった。

 

20代後半から、30代前半。

実力と社会からの評価があいまって、僕ら男は

こういう眼鏡違い、判断違いを起こす。

 

自分の力を過大評価して、しっぺ返しをくらうんだ。

 

ieyasu

家康が、二度と同じミスを繰り返さないと決め

描かせたというこの絵。

 

31歳の痛い敗北と、同士の死の責任を思い起こす、苦渋の表情である。

 

後年、こういった経緯があり家康は

「鳴かぬなら、鳴くまでまとうホトトギス」

という句を詠まれるほどの、性格を身に着けていった。

 

だが、もとは感情的で、人情無あふれ

我慢に我慢を重ねた人物なのだ。

 

 

今、苦労を重ねている人。

なかなか、思ったような結果が出ない人。

能力のわりに、周りに埋もれてしまう人。

 

そういう人は、この後の家康の人生を知って

応用してみたらいかがだろうか。

 

 

ところでさ、これを読んでMR.JUNさんって何者?

天才なんじゃない!?

って思った人いますよね。

 

たぶんww

 

現役の経営者で、デザインで食べてます。

ART×経営のバランス感覚を磨いてきた

徳川家康型の、努力の人がMR,JUNです★

 

そんな僕の、動いてる姿が見られます。

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